「既にそこにある大竹伸朗 讃」

11月22日、大学時代の友人と「大竹伸朗展」を見てきた。

    

「全景」以来16年ぶりと思っていたが、数年前に東京の小さなギャラリーで初期の作品を集めた小規模な展示を見ていたことをすっかり忘れていた。最近は展示に限らず、観た映画や読んだ本のことを忘れて再び借りてしまったりすることがあって困る。若いときのように、記憶に定着しないのだ。なぜか「網膜」という大竹さんの作品タイトルが浮かぶ・・・ 

 

じっくり3時間ほどかけて見た。見たというより、浴びるような感覚。そのうちの半分くらいは大竹さんの制作風景の映像をずっと見ていた。

  

大竹さん、左利きなんだ・・・
こんなふうにしゃべるんだ・・・
アトリエ、カッコいいな・・・
あの樹脂みたいなもの、自分も使ってみたい・・・ 

 

見終わって出てきた所の売店。グッズでぐずぐず悩んでいて、ふと見たら受付のところに大竹さん本人がいた。見に来ていた若いカップルと一緒に記念撮影をしているではないか。自分も!と一瞬で鼻息が荒くなったが、大竹さんは美術館の関係者らしき人と一緒にすぐに外に出て行ってしまった。想像していたよりも小柄な方という印象であった。

  

作家の山川健一は、インタビューの仕事でミック・ジャガーに初めて会った時に「長年、通信教育を受けてきた生徒がついにその先生に会った気分」というようなことを書いていたが、ふと、そのことを思い出した。もちろん直接話した訳ではないが、「ほんの数メートル先に大竹伸朗がいる」ということにじわじわと静かな興奮を覚えた。

  

という訳で、今回は啓示をもらったんだと思う。これを逃すと二度と書けないような気もするし、いい機会なので思い切って、どうでもいいようなことも含めて、長年頭の中にあることを思うまま書いてみようと思う。

  

 

1991年9月池袋西武アートフォーラムにて開催された展覧会「大竹伸朗の仕事 ECHOS 55-91」で、私は大竹さんの作品を購入している。いや正確に言うと、その展示会場ではまだ買うところまで決断がつかず、作品ももう大半が売切れていたかして、その場をフラフラと出てきたのだろう。造船に使われるファイバーグラスでさまざまな印刷物や紐状のものが積層され閉じ込められた、自分にとって極めて魅力的な箱状のそれは私の琴線に触れまくり、ずっと頭から離れなかった。当時私はパルコに勤めていたのだが、会社の先輩に相談したところ、パルコギャラリーを通じて作家本人から購入できるかも、という想像もしない形で話が流れてきた。そしてなんと、パルコの社員販売扱いになるため、20%も割引になるということだった(大竹さんスイマセン・・・。でも大竹さんには
きちんと全額支払われているハズ・・・)。 

 

その時の私は、東京の本部宣伝部から熊本への転勤を命じられた渦中にあり、気が動転していたというのもあったのかもしれない。しれないけれども、とにかく私は購入を決断した。作品の値段は、入社2年目のさえない社員のボーナスでは足りないくらいの金額だったように思う。熊本での仕事にすこし慣れてきた12月のある日、私の部屋にそれは届いたのであった。大竹さんご本人に選んでいただいた作品は、限定100点のうちのひとつであることを示すナンバーが手書きで記されていた。きれいな文字だった。以来、何か決断が必要な時や、パワーが欲しい時などに御開帳しては、またそそくさと仕舞うことを繰り返している。この30年あまりの間、私の中にある重り、重心として心のどこかにいつもある。 

 

余談ではあるが、この翌年の1992年、パルコ主催のアート・コンペティション「アーバナート」の第1回大賞を受賞した織咲誠氏の作品「Hole Works #1」について、大竹さんは、自身が1990年に発表した作品「Shipyard Works」に手法が酷似しているとして、パルコにクレームを提示している。この頃私は熊本にいて、そんなことがあったことなど全く知らなかった(ということがたしかにあったと思うのだが、記憶に自信がなくて不安になってきた。検索してもどこにもその記述はない・・・どなたかこれに関してご存知の方、いらっしゃいますか~)。仮に、私の購入時期がパルコと揉めている渦中であったなら、作品を売ってもらえることもなかったかもしれない。 

 

さらに余談だが、3年間の熊本勤務から東京に戻った私は、1995年にこの「アーバナート #4」を担当することになる。

  

そしてさらに余談だが・・・この「アーバナート」の前身である「日本グラフィック展」の第1回(1980年)に、大竹さんは応募していて入選となっている。この年大竹さんは3月に武蔵野美大を卒業し、ロンドンへ・・・ 

 

 

大竹さんを知ったのは、もう少し前にさかのぼる。私が大学生の時に読んでいたファッション誌『EDGE』という雑誌に、大竹さんが書いた文章が載っていた。見開き2ページに描かれた不思議な絵と文章になんだか無性に魅きつけられて、私の脳に「大竹伸朗」という名前が刻まれた。ただ、その頃の私は赤瀬川原平さんに夢中で、芸術を通り過ぎて「超芸術」の方に興味が行ってしまっていた。大竹さんの名前はちらほら気になりつつ、伝説の佐賀町の展示などには田舎の大学からは足を運ぶこともなく、時は過ぎていった。作品現物に触れるのは、社会人になってから、先に書いた池袋の展覧会でのことであった。

 

高校3年生の時、学校帰りに立ち寄った本屋で『超芸術トマソン』に出会い、自分で町を歩いてトマソンの写真を撮ったりしていた。大学に入った最初の年の学園祭の講演会に赤瀬川さんが来るというので、その時撮った写真を握りしめて講演を聴いた。終了後にご本人に写真を見せたら「ああ、いい写真ですね」と言われた。裏にサインをしてもらったその写真は今でも大切に持っている。(ちなみにその写真の物件は春日部で撮影した「原爆タイプ」であった)。赤瀬川さんはその頃すでに作る人ではなかったが、そのペン先から綴られる文章はどれもただならぬ空気を纏っていた。 

 

なんでトマソンのことを書いているかというと、大竹作品に、私がかぎりなくトマソンに近いものを感じるからである。こんな風に感じるのは初めてのことだ。トマソンの面白さは、無名による無意識の造作が大切に保存されたりしていることを、見る側がいろいろに解釈をする面白さなのだが、 大竹作品の場合、それはまぎれもなく「人為」の塊なのに、すでに人為を超えた領域に達しているように思える。大竹さんが目指してきた「芸術からとにかく離れようとする」感じがそう思わせるのかもしれない。私にとって赤瀬川さんが先生だとすると、大竹さんはヒーローである。先生にはなろうと思わないが、ヒーローは憧れの先に、そのヒーローに自分もなりたいと思わせるものがある。 

 

私が担当した「アーバナート#4」をはじめ、明和電機などを輩出したソニー主催の「アート・アーティスト・オーディション」など、1990年代前半はまだアートが頑張っていた。というより、企業が彼らを支えるような仕組みで流れができていた。受賞したたくさんのアーティストたちも、脚光を浴びて活躍していた・・・かのように見えた。その後どんどんと月日は流れていくのだが、10年、20年という単位でずっと活躍できているアーティストが果たしてどれくらいいるだろうか。宮崎駿は映画「風立ちぬ・・」の中で、「創造的人生の持ち時間は10年。」とカプローニに言わせている。そう、10年全力疾走したら、あとは惰性で飛ぶか、失速して落ちるのだ。

  

大竹さんは孤高の人だった訳ではなく、ある時期から良き理解者というか盟友というか、そういう人が存在していたことも重要であったといえるだろう。そのうちの一人、都築響一氏の文が、心に響く。 

 

「絵を描いたり、見たりすることがなにより好きな若者たちには日本でいちばん人気があって、評論家や学芸員にはだれよりも敬遠される、アンタッチャブルな存在。そういう不思議な立ち位置に、大竹伸朗は生きてきた。美術館に背を向け(向けられ)、彼の情熱を共有する少数の画廊や出版社だけを道連れに、この孤独な長距離走者は人生を制作に捧げてきた。小さな業界サークルの一員となり、美術大学に職を得て制作場所と経費を確保してもらうかわりに、彼は山奥のアトリエにみずからを閉じ込めた。そして『展覧会』という名の社交と営業に精を出すかわりに、旅に出た。名刺も、愛想笑いもそこには必要なかった。ペンとスケッチブックと、小さなカメラがあればよかった。」 都築響一「旅の記憶」 『ユリイカ』2006年11月号 青土社 より

 

様々な国の紙が散りばめられ積層され、それが透明性のあるものである硬さを持ってしっかり閉じ込められている安心感と物体感。大きすぎず、家に置き場所のある手頃なサイズ感。そして「箱」という形態。今から31年前、23歳の私が魅了されてしまったこの作品。その後大きさをどんどん増していく大竹作品にあって、むしろこのコンパクトさが稀少ともいえるこの作品は、以来ずっと「既にそこ(家)にあるもの」であり、展覧会に足を運ばなくとも大竹さんはいつもそこにいる。そしてそれ以来、自分の好みを凝縮したようなこの作品を超えて欲しいと思わせる作品に、私は出会っていない。

 

ずっとアートに関心を持って追いかけてきた訳ではないし、美術教育を受けてもいない自分が、それでも自分のアンテナの範囲で興味を持ち、触れてたどって来たアートに関する流れのようなものが、この年齢になってようやく俯瞰できるようになってきた。それは、自分も作ることを仕事にしていることや、最近ではオブジェのようなアート寄りの作品も作るようになってきたことも関係しているかもしれない。染色家の柚木沙弥郎さんは、フランスで自分の作品がAnother kind of art」だと言われてなるほどそうかと納得したと書いているが、木工である自分の行きたいところもそこに近いような気がする。大竹さんには到底なれないし、自分なりの道筋を見つけていきたいと思う年齢にはなってきたが、たぶんそんなものは見つからないのだろう。ぶつくさ言ってる暇があったら手を動かせということだ。

 

大竹さんの文章は、いつでも終わりが格好いいと思うが、自分はそうはいかないなと思う。久しぶりに何冊かを読み返していて、やはりどこをとっても格好いいのだが、最後にこの一節を引用して締めくくることにしよう。

 


「僕が書いたこの文章が本になり、他人の手に渡り、それが一体どんな思いにつながるのか、今のところそんな大それたことを考える余裕は全くない。しかし、もし、どこかにいる、単純にモノをつくったり絵を描くことの好きな若い連中に『なんだ、これならオレだってできるじゃん』といった前向きな思いがふと湧いたとしたら、自分にとってこれ以上の喜びはない。どんなに反則技にたけた芸術理論武装隊や美術関係者に取り囲まれようと、最終的にそれを突破するのは結局”熱い思い”であると僕は信じている。どんなに笑われようとそう信じているのだ。」 大竹伸朗『既にそこにあるもの』新潮社 あとがき より

母の子どもの頃

終戦記念日だ。

 

この日が来るたびに母が書いた短い文章のことがちらちらと頭をよぎるのだが、

母が亡くなった訳でもないしと、これまでどこにも書いたことがなかった。

私の小学校の時の卒業文集。

他の級友のお父さんやお母さんがみんな

「卒業おめでとう。早いものでこの間入学したと思ったら、もう卒業ですね。」

という調子で文を寄せている中で、私の母の文だけが全く違っていて、私にはそれがすこし恥ずかしかった。

おかあさん、なに書いてんだよう

でも今は、母が私の卒業文集にこれを書いた意味がわかるような気がする。

それは私も人の親になったからだろうか。

ちょうど40年なので、ここに記しておこう。

 

 

「自分の子どもの頃」  本田光代  

 

子ども心に印象深かった疎開先での思い出についてだったら何とかまとまるかしら、と書いてみる気になりました。

昭和十八年頃父は、ジャワ・ボルネオ・スマトラ方面にいるらしく、母は祖母と私達兄妹四人を危ないからと宇都宮の奥の農村に疎開させました。そこでの生活は今までの都会での暮しとは違い、山を開墾して祖母と畑に野菜を作り、小学四年生と六年の兄二人だけで父の郷里の福島まで食糧の買出しに行ったりと親も生きるのに必死でしたから、子どもなりに嫌でも仕事の分担をしていたと思います。母が東京の家から私達に会いにきてくれる毎月の月末の土曜日の日が待ち遠しくて、夕靄のたちこめる頃、遥かな田圃のはずれにポツンと人影が見えると走って走って「おかあさ~ん」と呼びながら胸に飛び込んでいったものでした。その晩は五時半頃にはランプを消して(まだ電気がひけていない所なので)家族六人が床に入り真暗な中で「叱られて」「里の秋」をうたってもらったり「おむすびころりん、すっとんとん」と優しい声でお話してくれたのがありありと思い浮かびます。日頃、そばにいてやれない埋め合わせの気持もあったのでしょうが、三十才の母にとってもホッと心なごむ一時だったのでしょう。翌日、又勤めがあるので帰って行く、そんな三年間でした。

父が南方から復員したのを機に、前に住んでいた品川の五反田ではありませんでしたが、ひとまずここに見つかったからと足立の住人になりました。後年、私が高校一年の夏休みに内職の手伝いとアルバイトで汽車賃を貯めて妹と二人で疎開先を訪ねました。親戚の人や懐しい同級生に会い、つもる話をしてきました。「何んて平和っていいんだろう」とつくづく思いました。

子ども達にはあの悲惨な「学童疎開」や戦災の体験などさせたくない、自分達の世代だけで沢山だと思うので、折にふれて話すのですが、忙しい当時の母よりも、今の私の方が、子ども達が三十五年たっても忘れないでいる程、心の奥での「ふれあい」がないのではないかと疑問に思っているこの頃です。

 

1980年度足立区立小学校六年三組卒業文集より

新年。

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あけましておめでとうございます。

 

いつになくあたたかい冬ですが、雪不足も伝えられ、

ちょっと心配でもあります。

遅まきながら、家族で初詣に行き、

いろいろなことをお願いしてきました。

健康で、作り続けていられることに感謝です。

良い年になりますように。

家の具。

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家具、道具、絵の具。

 

本来の「具」とは、何かをするために使うものの意ですが、

「家の具」はそういうものに留まらない。

たとえば、お味噌汁の具、みたいなイメージ。

もうすこし自由度が高い感じです。

用、無用は問わず、家の中での暮らしを構成するもの。

夏の海辺で拾ってきた石ころ、森で拾った木の実、

そういうものたちも、家にやってきた瞬間から、

家の具になるのです。

好きなものを飾ることで、すこしづつ何かが変化する。

 

 

広島での初個展です。

新作の鏡や額、お皿やお盆、カトラリー、オブジェなど、

「家の具」となる作品を展示販売いたします。

また、広島在住の画家nakabanさんによる、

「家の具」をイメージした絵も数点展示します。

  

題字:nakaban

4月です。

201904-047

 

あけましておめでとうございます。

と、

書こう書こうと思っていたら、もう桜が散り始めてしまいました。

 

HPのトップに、SNSのアイコンが出現しました。

気づけば自分もいろいろやっております。

発信することは大切ではありますが、

このイサド通信でわざわざ発信するべきことは何でしょう。

 

パソコンに向かいながらキーボードで文を綴る時と、

慣れないスマホで一生懸命人指し指で文字をタッチしながら綴る時では、

思考の流れが違う感じがして、生まれるものも違うような気がする。

原稿用紙からワープロに変わった時も、そういうことが言われていたような気がする。

パソコンもスマホも道具であり、道具を使う手とつながる先に脳があってその人がいる。

何の結論にも向かっていないけど、道具によって少しずつ左右されていく文化というか、

そういうことに興味があります。

掲載。

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マンションリノベの強い味方、リライフプラス31号が発売です。
地味に連載中の「イサドの森」、今回は「木のはなし」の第二回目、杉について書きました。
書き出すとキリがなくて、削るのが大変でした。
同じ連載陣のワタナベ君(訓練校時代の同期)の、スタンダードトレードの新しいお店も紹介されています。
(オープンおめでとう!)

お知らせ。

日本の日用品と暮らしの贈り物を提案するJOURNAL STANDARD SQUARE。
渋谷本店と日本橋店で、装飾額、鏡、パン皿、ボード類を取り扱っていただくことになりました。
もう店頭にも並んでいると思います。工房イサドを知る方にも知らない方にも、
手にとっていただけたらと思っています。

掲載。

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クレア1月号、森岡書店店主の森岡さんに「毎日使いたい器」というテーマで、
ブレッドボックス/パン箱を取り上げていただきました。

とりごえまりさん。

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とりごえまりさんとの二人展、はじまっています。

とりごえさんは金沢在住の絵本作家さんです。
これまでにたくさんの絵本を出版されているほか、いろいろなお仕事で活躍されています。以前は関東にお住まいでしたが、2年ほど前にご出身地の金沢に戻られました。金沢で作品を発表されるのは今回が初めてになるとのこと。
私とは3年程前に額のご注文を頂いたのがはじまりでした。亡くなったご両親がお若い頃の、小さなモノクロ写真を入れるための小さい額を、というご要望でした。その時は工房までおいでいただき、いろいろなお話をしました。それ以来、何度か額などを作らせていただいています。
今回の展示も初めは額だけの参加のつもりでいたのですが、会場のコラボンさんとのご縁などもあり、額以外の作品も展示する二人展という形になりました。
私もそうですが、とりごえさんも動物や植物などがとてもお好きで、その感じが絵からもとてもよく伝わってきます。これまでも自分が作る額を通じていろいろな画家やイラストレーターの方などと展示をさせて頂いていますが、それぞれの絵の世界と出会うことで、額も印象が変わったり全く違う表情を見せたりします。そこが、いつも本当に面白く感じているところです。

(金沢には一度も行ったことがないので行きたかったのですが、今回事情があって断念・・・残念~!)

掲載。

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発売中のアンドプレミアム。
スタジオ木瓜・日野明子さんに、チーズを切るためのボードとして選んでいただきました。

«別府にて。東町温泉

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