刺身。
やっと確定申告が済んでホッとしています。
毎年のことながら、疲れた・・・・。
小島伸吾という、木工の世界ではかなり影響力のある作家がいまして(敬称略で失礼)、私はあまり詳しく知りませんし、作品も二度ほどしか見ていないのですが
数年前に東京国立近代美術館工芸館で行われた「現代の木工家具」展のカタログに
彼が書いていた文章が、時折仕事をしていると頭をよぎるのです。
以下全文引用させていただく。
この頃よく、「良い木が無くなった、昔は・・・」と言う事を、物作りの方々の言葉の端を耳にする。確かにそうだと思う。20年も前に北海道へ出掛け、手に入れていた7、80センチメートル径の、素晴らしい直材の樺や楢、そんなものが普通と思っているのに、市場でそんな姿が見られなくなり、この頃は有るだけでオーなんて言う事も少なくない。
しかしそんな事も今始まったわけではない。南方熊楠の本の中にも一地域をおおってしまう様な巨木の話が出てくる。まあそれは昔話のひとつかもしれないが、西岡常一氏の薬師寺(1976年完成)でさえ台湾の檜を使用している。そんな大それた物作りの材ではなく、我々の買う中での、市場での状況も大きく変わってきている事も事実だと思う。ただ作り手も使う方々も、良い木目、大きな一枚板、それにむずかしい組み手や仕口と、感嘆の声をよく聞く。工芸の中で最終の製品の中に、こんなにも素材の前世の姿が生々しく出て来るもの(木工)は、ほかに見当たらない。刺身も料理の一部だとは思うが木工(家具、手作り)の世界はうんざりする程、それでしかない様に思う。
もちろん、素材も板も良いに越した事はない。が、素材と技術で作られる家具ではなく、創る人間の生活態度が現れる様な家具を創りたいと思っている。そこに現れた生活態度が貧相なものではいやだと思うし、感性は自然に身に具わるものとは思えない。自分自身が育てるものではないだろうか。
昭和の初期に、機械生産によって出来た品質の悪いものに対して出て来た、工芸家の低劣な造形力の製品を否定する様に民藝運動が始まり、それから半世紀以上も経たが現状は大きく変わっていない。変わったのは、すばらしく素敵な量産品が数多く市場に出回り始めている事だろう。
大事な事を言っている作り手の、(昔の)小学校の子供椅子にも及ばぬ稚拙なプロポーションとディテール、そしてその審美眼の低い愛好家達を観ると、この世界の貧弱さを痛烈に感ずる。我々を含め今度のこの展覧会がもっともっと高い処へと目指す、物創りへのスタートなる予感がして、とても嬉しい。
(現代の木工家具・スローライフの空間とデザイン展カタログ 東京国立近代美術館 2003より)
簡単な木のトレーのようなものを作っていると
まさに「刺身」だな~と実感します。
余計な事をしない、
というのも仕事なんだなと思うのです。
けれどもきちんと素材の良さを引き出す・・・。
すばらしく素敵な量産品に
小さなものづくりが勝てるのか負けるのか・・・・。
ホッとしてお酒飲んでる場合じゃないな。
最近のコメント