5月も半分。
カッティングボードのような「板もの」を作っている時にいつも思うのだが
(前にも書いたけど)これは料理でいえば、お刺身だなと思う。
素材が9割、仕事1割。
どの材料のどの部分を使うか、ということに神経を注ぐ。
デザインだの形だのは、まあ、そのあとからやってくる。
さいわい、料理の素材に比べて木はなかなか腐らないので
じーっとにらめっこしながら、どう料理してやろうかとか、
今日はやめとくかとか、考える。
お気に入りの杢目の板なんかは冷蔵庫の一番奥にしまってあって
たまに引っ張り出してきてはニヤニヤしながら眺めてまたしまう。
木の板というのは、いいなあ。なんだろう。
何を作ろうかと板をみつめている時間。
木工家になってよかったと思う時間。
常々思っていることのひとつに、文系的木工と理系的木工、というのがある。
ま、文系・理系という考えがまず古いんですが(笑)
木工をやっている人には理系的人間が多い、というのが私の感想。
みんなとても神経質で几帳面(いい意味でですよ)。
素材である無垢の木というのがそもそも神経質になる一因で、なかなか手ごわいのだ。
私の中にももちろんそうした理系的側面がある。ま、最低限木工家として必要なぐらいの、ですが。ただ、世の中にはいろんなタイプの木工家がいて、HPのブログなどを読ませてもらうと実に面白い。流木や廃材という最果ての素材を扱う人もいれば、工芸の粋を極めた楽器を作る人、経歴もいろいろで、まさに文系・理系がわかっちゃったりする。
理系の人は概して技術的な面にうるさく、機械・道具や冶具の精度に命かけてたりする。かなりストイックな面があり、飲むと語りだす。文系はあんまりそんなことは気にしてなくて、むしろスミも引かずにいきなり形を切り出したり、間違えてもまあいいかでなんとかしてしまう(いや、私のことではありませんよ!)
ま、こんなふうにきっちり分かれるわけではないですが。
作られたものには必ず作った人が反映されている。
いろんな人がいろんなものを作っている。
だから面白いんだろうな。
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