「工房からの風」というクラフトイベントへ。
春日部から東武野田線で柏、船橋、JRにのりかえて下総中山まで。
思ったよりも長い。たっぷり読書した。
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「日本アンデパンダンから読売アンデパンダンへ移行していったもう一つの理由は、脚光を浴びたいということだった。絵を描いて学校へ持って行き、それを衆人環視の中で先生に褒められて、小さな画家は自分の力というものを確認する。その小学生のときにすでにある画家の自意識というものは、大人になっても変らない。それは創造にまつわる基本的な欲望である。その脚光の質の点でいっても量の点でいっても、読売アンデパンダンは日本アンデパンダンとくらべて段違いの威力をもっていたのだ。その根幹にあるのはもちろん「読売新聞」という巨大な情報装置である。まして読売アンデパンダンというのは無鑑査の展覧会であり、無名の新人発掘というのがモットーである。
アンデパンダンがはじまると、その会期中の新聞紙上に写真入りでズドンと出て来る新人紹介はショッキングなものであった。それを見るたびに胸騒ぎを覚えた。こういうときの紙面の輝きというものは、これは正しく説明することができないかもしれない。だけどこれは紛れもなく若い無名の画家たちに大きな引力となり、そのセルモーターとして働いていたのだ。私のころにもそうだったけど、初期のころから出していた山口勝弘や利根山光人に聞いた話でも、その新聞紙上での報道の輝きは大変なものだったという。すでになる大家が新聞に載るのなら驚きもしないけど、自分と同じまったくの無名の新人である。その脚光を至近距離に見て、画家の体内には創造力の裏側で、もう一つの邪悪なエネルギーが波立ってくる。作品の実質もさることながら、自分もその脚光を浴びたいというエネルギーの波立ち、その波が大きく揺れて、さらに過激に創造力を回転させる。純粋無垢の絵画理念による創造というものは、いつもそういう邪悪なエネルギーによって支えられている。」
赤瀬川原平『反芸術アンパン』ちくま文庫
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1950年代後半から60年代にかけての若き芸術家たちの熱き闘いを半分くらい読みかけのアタマで、その50年後の2011年のクラフトの今というものをながめてみる。比べても仕方のないことだけど。おとなしく、きれいで、質素という印象。それが今の時代の雰囲気なのだろう。ていうかクラフトってそもそもそういうもの?50年前の日本にクラフトは存在したのだろうか。
井上陽子さんのオブジェと沖原紗耶さんのしゃもじを購入。
しゃもじはさっそく今日の夕飯で使い、オブジェもさっそくチビたちにいじられ・・・。
よい一日でした。
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