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SNSもやっているが、ちょっと思うところあってブログに戻ってきた。
「戻ってきた」という表現もなんだかへんな感じだが。
最近はなるべくマメに書いている。
とはいえ、自宅からほとんど出ない毎日にそんなに面白い出来事が起こるわけでもなく、
書くことはどうしても自分の内側に向かいがちだ。
外に出て人と会ったり何かを見たりすることが、川に船で漕ぎ出しているようなものだとすれば、
自分はそれを岸からじっと眺めているようなものか。
流れに乗っているとその流れは止まって見える。岸からは流れがよく見える。
例えがいまひとつうまくない。
日記なのだからオチをつけなくてもいいのだが、
これも表現のひとつと思うと、なんとなくまとまりのようなことを考えてしまう。

新記録。
2980円。
12時過ぎ。
駅からタクシー。
信号ひとつも掛からず。
神様ありがとう。

お盆を彫っている。
彫っては研ぎ、研いでは彫る。
こんなに刃物を研ぐようになるなんて、昔の自分は想像もしていなかった。
研ぎというのは、砥石と、刃物と、自分の間に存在する問題だ。
きちんとすればきちんと切れ、いいかげんではいいかげんなままだ。
  
『飛騨』という冊子がある。家具メーカーの飛騨産業が発行しているものだが、
知り合いが時々送ってくれるので読んでいる。
手元にある11号は「でっち」がテーマで、木工職人を目指す若い「でっちどん」たちのことが紹介されている。
自分は職業訓練校に一年通っただけで、丁稚の経験はないが、
読んでいたらなんとなくその頃のことを思い出した。
  
朝早く学校に行くと、もうすでに誰かが研ぎ場で刃物を研いでいる。
自分はあまり研ぎが得意でなかった。
というより、研げているのかどうかもわからないで、なんとなく研いでいた。
それでも悔しさから一年やっているうちに、少しは研ぎの感覚をつかめるようになった。
この時の経験が20年後のいまになって活きている。
上手くなっているかどうかは別の話だが。

庭の畑の脇に積んである堆肥を掘り起こしていたら、
カブトムシの幼虫がゴロゴロ何匹も転がり出てきた。
白く輝く宝石を掘り当てたようなこのワクワクした気持ちは
子供の頃からまったく変わらない。
土から出てきたくせに彼らは少しも汚れていない。ピカピカに輝いている。
この惑星にこんな形をした生き物が生きているんだなぁといつも感心する。
向こうも同じように思っているのかもしれないが。
  
カブトムシのメスは、飼っていてもすぐに土に潜ってしまい、
オスに比べてあまりにも存在感が薄い。
産卵するのに最適な土壌を常に探しているのだろう。
あるいは単に恥ずかしがり屋なだけか。
落ち葉やおが屑が豊富で、いつも放ったらかしな我が庭は、
彼女にとってちょうど都合が良いのだろう。
  
山椒の木もあるせいかこの夏はアゲハもよく飛んでいた。
アゲハの成虫は華麗で優雅だが、ずんぐりムチムチの幼虫も実に愛らしい。
山椒は実生であちこちに出てくるので、増やすようにしている。
いつまでも昆虫が来てくれる庭にしておきたい。

額を作るため、古い建具をバラしている。
2~300年前ぐらいに建てられた古民家から頂いてきたもので、
寸法や作りが現代のものとはちょっと違っている。
横桟に積もった塵や埃を洗いながら、これは江戸時代・・・あの鬼平の
生きた時代の埃なのかと、しばし思いを馳せる(そんなことはないと思うが)。
そういえば先日、羽生パーキングの『鬼平江戸処』で「五鉄の軍鶏鍋」を食べた。
値段の割に味は・・・であったが、話のタネとしての代金も支払っているのだろう。
次回は「一本うどん」を食べてみたい。

201510_244
  
  
北海道の楢材を使ったダイニングテーブル。
1800×900ミリ。天板厚みは34ミリ。
遠方からのオーダーだったので、脚は組み立てる構造にした。
引き出しは4杯。


木の根を掘っている。
隣家との境界に切っても切っても生えてくる切り株がいくつかあって、
ついにスコップで根を全部掘り上げることにした。
根は、別の木の根と隙間を争うように四方八方に伸びている。
掘り上げた根は醜いが、生きたい生きたいと願う意思の塊そのものに思える。
木はたいてい幹や枝葉、花や実などについて語られるが、
じつは木の本質は根にあるのではないだろうか。
私たちは見えることばかりに終始し、見えない部分を疎かにしがちである。
この問題は根が深い。


ふと立ち寄ったリサイクルショップで久しぶりにビビッときた。
藁と紙紐のようなものを編んで作られた人形で、高さは20センチほど。
サイケっぽくもあり、呪術的なかんじもする。
土台の木の裏側に「ザイール」とマジックで書かれているが、信ぴょう性はない。
自分は昔からこういうものにほぼ無条件に弱い。
よくある民芸品なのかもしれないが、よくわからない。
値段は250円。この値段でこのかんじが手に入るのなら、安い。
ものを買うということの意味を久しぶりに考えた。

庭のコナラの枝に小さな蜂の巣がついていた。
蜂はもう去った後のようで、そっと採ってみた。
小さな六角形の部屋が16室。
弾力があり、意外にしっかりしている。
  
夏の間、蜂が工房に立てかけてある杉の木の表面を
懸命に削り取っている姿を何度か見かけた。
それに唾液を混ぜて作り上げたのだろう。
ある意味木工品といえる。
家だから建築物か。
柔らかく美しい小さな建築。

デジカメのオートフォーカスが壊れてからだいぶ経つ。
修理の見積りが予想以上に高かったので、修理はあきらめて新しく買うつもりでいるのだが、
なんだか今のこのカメラを見捨ててしまうのもどうかと思い、悩んでいるうちに日が経ってしまった。

写真を撮らなくなったことで、文章が書けなくなった。
今までは、いい写真が撮れたその勢いで文章が書けていたような気がする。
シャッターを押して、なるべく新鮮なうちにそれを料理してブログやSNSに盛り付ける。
リズムがある。リズムというよりも流れのようなかんじ。早い。
思考よりもまず画像。画像に収めてから考える。いや、あんまり考えたりはしないのかもしれない。
画像は文章のイメージを具体化してくれる。画像がイメージを作るのか。なんかよくわからないが、
画像は時に便利で有効だ。たいした文章でなくとも画像とともにあるとなんとなくそれっぽく見えるから。

デジカメが壊れて、すこしさっぱりした気分になっている。

話は変わるが、私たちの目玉は丸いのに、いわゆる絵画や写真、額、画像などはどうして四角いのだろう。
最近ネットで丸い形の額縁を見たのだけど、なんだか「額」という感じがしなかった。
四角形の持つ力、作用と人間の営みの間には、想像以上に深い何かがあるような気がしてならない。

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