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別府Spicaでの展示が終わりました。
在廊中はたくさんの方にお越しいただき、本当にありがとうございました。
遠く離れた場所での展示、実は内心かなり不安でもありましたが、
初日からたくさんの方々が手に取ってくださっているのを見て、
どっと肩の荷が下りたというか・・・ホッとしました。
小さいけれど、自分がひとつひとつ作ってきたものが、
いろいろな人の手に渡っていくことの不思議さ、ありがたさを
今回もあらためて、しみじみかみしめました。
出会いの場を作ってくれたSpicaのおふたりに感謝です。
 
そして、もうひとつのお楽しみ・・・。
温泉三昧にお酒、お刺身、天丼、蒸し豚、冷麺・・・
いやいや何しに行ったんだっけ・・・
別府・大分で活動されている作家さんたちとも飲む機会を作っていただき、
とても実りのある宴会(?)となりました。
別府はやさしい印象の方が多いですね。
 
今回は前のりで一度行ってみたかった日田にも行ってきました。
小鹿田焼の里では窯元の軒先に無造作に置かれた器たちにひとり興奮し、
夜は「日田リベルテ」という映画館を運営されている原さんとお会いし意気投合。
いい町にはいい人がいるなぁ・・・いや、いい人がいるからいい町なのか。
焼きそばも餃子も実においしかった。
久しぶりにひとりで観た映画『しあわせへのまわり道』も実によかった。
小鹿田も日田も、まだまだ見ていないところがたくさんで、
こんな数行の拙い自分の文章ではまったく書ききれないし、
またぜひ行きたい場所となりました。

別府にて。

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日田にて。

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小鹿田にて。

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別府での個展がいよいよ迫ってきた。
今はもうなくなってしまった大分パルコのギャラリーで展示をして以来、九州では10年ぶりだ。
当時の作品は、今思えば冷や汗が出るようなものばかりだった気がするが(今もそうか)、
それでも独立して間もない頃の勢いのある作品が多かったように思う。 
 
「ベップ」という言葉には、どこか異国の言葉のような響きがある。
北海道のアイヌ語のような、あるいはヨーロッパの小国の言語のような。
 
別府には3年前に長男とふたりで訪れている。
国東半島をバスで巡る飴屋法水さんのアートツアー「いりくちでくち」に参加したのだった。
別府市内では「混浴温泉世界」というアートイベントが開催されていて、こちらもいくつか体験した。
「ベップ」と口にする時、こうしたいろいろな記憶が混ぜ合わさって、
ゆらゆらと湯けむりのように不思議な光景が浮かぶ。
ふだん自分たちが暮らしている町とはまるで違った別世界の街「ベップ」。
そんな大好きな街で展示ができるのがなんだかとてもうれしい。 
「ベップのスピカでイサド」を、お楽しみに。

今年も薪ストーブに火が入った。
毎年この時期からぼちぼち始まって翌年のゴールデンウイークぐらいまで、
ほぼ半年間は働いてもらう。
春から夏にかけての仕事の結果出てくる木っ端を主に薪にしているが、
それは「薪」というには恥ずかしいぐらいの小さなものだ。
生活の必需として薪ストーブを使っているので、あまり格好をつけている余裕がない。

マンションリノベーションをテーマにした扶桑社の雑誌『リライフプラス』も、いつの間にか19号。
連載「イサドの森」、今回は薪ストーブについて書いています。
 
Vol19_h1small

民藝館に先日行ってきた。アイヌの工芸展以来、2年ぶりだ。
開催中の芹沢銈介展、染織の作品は言うまでもなく素晴らしいが、
氏のコレクションを見るのもとても楽しみだった。
作り手が蒐集する物が、その作品に何らかの影響を及ぼしているとすると、
蒐集することも創造の一端を担っているとも言える。
自分も蒐集癖があり、作り手と蒐集というテーマにはとても興味がある。
よく考えれば、物を作っている人間が物に興味を持つのは当然のことなのだが、
蒐集という領域に至るのは、また別の段階だと思うのだ。
  
民藝館のもう一つの楽しみは、建物を見ることだ。
特に自分が一番楽しみにしているのは、玄関の立派な引き戸やガラス什器などに用いられている
「剣留め」という仕口を見ることだ。構造と意匠を兼ねたこの仕口は、作るのは大変だが、
出来上がると独特の格調を生み出して、なんとも美しい。
手間がかかるためか、現代の家具デザインではまず見かけることはないが、
この民藝館にはこれ以外ないという感じで堂々と演出している。
ここに来るたびにじっと見つめてはため息をついてしまう。
他にも擦れて渋く光る床板や、正面階段の手摺のグイッとねじれた部分など、挙げればキリがない。
もちろん展示を見に来ているわけだが、このように建物のお気に入りの部分を見つけておいて、
時々訪れては確認し愛でるのも、また別の面白味があると思う。

デジカメが修理から戻ってきた。
新しいのを買おうと思っていたが、考え直して修理に出していた。
オートフォーカス不良とレンズ作動不良。
各部点検・清掃してもらって税込22,600円。
おつかれさま。これからもがんばってください。
さて、久しぶりに何か撮ろうと思ったが日が暮れてしまった。
 
不在中は妻のコンパクトデジカメを時々借りて撮ったりしていたが、
上がってくる画像はなんとなくいまひとつで、もどかしかった。
今まであまり意識しなかったが、やはりレンズや性能の違いなのかと実感した。
 
自分は手紙など何か文字を書く時にボールペンとの相性が悪いとうまく書けないことがあって、
それと同じようなことなのかなという感じがした。
いずれも手や目や、脳の延長線につながっている道具であって、
どうでもいいやと流せない自分を発見することになる。
道具というものを見つめ直すいい機会になった。

ちょっと前まで「です・ます調」で書いていた。
デジカメが壊れたせいで、転調した。
いや、カメラのせいではないか。
 
語尾を変えることで印象が柔らかくなったり、冷たくもなる。
文章は難しい。
不特定だけど誰かに向けて書くとき、自然と失礼のないようにという気持ちが働く。
単なる日記と思うと、丁寧な表現は逆に気持ちが悪い。
 
「言葉尻をとらえる」という言葉があるように、そこにつけこまれて弱みとなることもある。
最近はバカ丁寧というか、へりくだり過ぎてわけのわからない「させていただく」が横行しているが、
あれも一種の防御というか、保険のようなものなのだろう。
自分も過去に、うかつに放った言葉のせいでとりかえしのつかないことになってしまった経験があるので、
わかる気もする。
 
話すこと、書くことは、あまり意識しないけれど、やはり技術やセンスがいるということなのだろう。
最終的にきちんと相手のことを思いやった言葉が、深く心に届く言葉になるのではないか。
自分のような余裕のない人間にはなかなかできそうもないが、
意識の隅に置いておくことぐらいはできそう・・・かな。

欲しい、乗りたい、と思える国産車がない。
いいと思う車は昔のものか、外国のものばかり。
車に関わる仕事をされている方には大変失礼とは思う。
もちろん好みの問題もある。
自分もそんなに車にはこだわらないようにしている。
それにしても、あまりにも、ない。
欲しい、乗りたい、と思うような国産車を作って欲しい。
お願いします。

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