母の子どもの頃
終戦記念日だ。
この日が来るたびに母が書いた短い文章のことがちらちらと頭をよぎるのだが、
母が亡くなった訳でもないしと、これまでどこにも書いたことがなかった。
私の小学校の時の卒業文集。
他の級友のお父さんやお母さんがみんな
「卒業おめでとう。早いものでこの間入学したと思ったら、もう卒業ですね。」
という調子で文を寄せている中で、私の母の文だけが全く違っていて、私にはそれがすこし恥ずかしかった。
おかあさん、なに書いてんだよう
でも今は、母が私の卒業文集にこれを書いた意味がわかるような気がする。
それは私も人の親になったからだろうか。
ちょうど40年なので、ここに記しておこう。
*
「自分の子どもの頃」 本田光代
子ども心に印象深かった疎開先での思い出についてだったら何とかまとまるかしら、と書いてみる気になりました。
昭和十八年頃父は、ジャワ・ボルネオ・スマトラ方面にいるらしく、母は祖母と私達兄妹四人を危ないからと宇都宮の奥の農村に疎開させました。そこでの生活は今までの都会での暮しとは違い、山を開墾して祖母と畑に野菜を作り、小学四年生と六年の兄二人だけで父の郷里の福島まで食糧の買出しに行ったりと親も生きるのに必死でしたから、子どもなりに嫌でも仕事の分担をしていたと思います。母が東京の家から私達に会いにきてくれる毎月の月末の土曜日の日が待ち遠しくて、夕靄のたちこめる頃、遥かな田圃のはずれにポツンと人影が見えると走って走って「おかあさ~ん」と呼びながら胸に飛び込んでいったものでした。その晩は五時半頃にはランプを消して(まだ電気がひけていない所なので)家族六人が床に入り真暗な中で「叱られて」「里の秋」をうたってもらったり「おむすびころりん、すっとんとん」と優しい声でお話してくれたのがありありと思い浮かびます。日頃、そばにいてやれない埋め合わせの気持もあったのでしょうが、三十才の母にとってもホッと心なごむ一時だったのでしょう。翌日、又勤めがあるので帰って行く、そんな三年間でした。
父が南方から復員したのを機に、前に住んでいた品川の五反田ではありませんでしたが、ひとまずここに見つかったからと足立の住人になりました。後年、私が高校一年の夏休みに内職の手伝いとアルバイトで汽車賃を貯めて妹と二人で疎開先を訪ねました。親戚の人や懐しい同級生に会い、つもる話をしてきました。「何んて平和っていいんだろう」とつくづく思いました。
子ども達にはあの悲惨な「学童疎開」や戦災の体験などさせたくない、自分達の世代だけで沢山だと思うので、折にふれて話すのですが、忙しい当時の母よりも、今の私の方が、子ども達が三十五年たっても忘れないでいる程、心の奥での「ふれあい」がないのではないかと疑問に思っているこの頃です。
1980年度足立区立小学校六年三組卒業文集より
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